長徳寺の歴史
一、縁 起
本寺の起源を古書に求むれば、遠く元慶の古と伝ふるも詳ならず、其の後しばらくして玄明律師なる行者の創立になると伝ふ。
当時は吉野屋敷佐藤氏の菩提寺として、保呂羽院之沢に建立され天台宗三文寺と称せられしが、同氏の庇護途絶えたる時廃寺になりしと云ふ。
其の後嘉慶二(一三八八年-六一五年前)年、藤沢本郷藤勢寺に、第九十代亀山天皇第三の皇子一品式部 常盤井恒明親王第四の御子尊観法親王御法体とならせられ、本山第十二世として遊行廻国の途次、この廃寺を訪れ之を再建し、一宇を建立宗旨も時宗に改宗寺号も長徳寺と改められ玆に本寺の基定まれり。
其の後不明の儘百七年を経て永正九(一五一二年-四九一年前)年、大織冠藤原鎌足公二十世の後胤佐藤忠信より六代の嫡孫羽州入沼の城主同苗信顕五世の末孫豊後守信重この地に下向、采地百余町を以って陣ケ森城主たり。其の五男信基薙髪して慈阿弥と号し、父信重本国廃寺の本尊慈覚大師御作三容の霊佛を守護し奉りしを当庵に勧請安置し奉り、永代檀信徒の守本尊となせり。
この後百余歳戦国末法の争乱を経て江戸徳川の治世に及び、寛永(一六二四年-三七九年前)以後大籠切支丹信者の国主伊達氏の大量弾圧に遇ふや、其の転宗を本寺に求め玆に檀家の急増を促し、更に天和二(一六八二年-三二一年前)年大保木(大宝城)屋敷千葉長三郎有志と計り、院之沢の地を手狭と風当りの故を以って釜ケ林の地と替山し、冨袋沢に新たに堂宇を建立移転し、もって山号不退山合掌院寺号長徳寺と号せり。
院之沢の旧寺跡には今尚礎石の累々たるを見、且旧寺の糸欄間はこれを取外し新寺に取付けその名残を止むるも後年一部を残し現在の欄間にに入替えられたり。
降りて享保十(一七二五年-二七八年前)年三月大柳屋敷岩淵宗貞の発意に依り庫裡並びに山門の造営さるるや、鳥之沢川(雉子川)を渡り山門に達する敷地は下返矢屋敷山口兵四郎の寄進によりたり。
又牛頭天王の併せ祈られたるも此の間なりしも文献口碑共に伝はらず、尚亦掛鐘一本、柳林屋敷大工与左エ門の寄進なる事記録に残りしも、その年代の記載なきに心残れり。
かくして明治維新に及び、神仏分離令により牛頭天王は分離せしめらるるも後年これを回復、更に大般若経六百巻中三百巻を保呂羽神社より移譲されたり。
顧みるに尊観法親王法燈を掲げられてより玆に六百十余年、慈阿弥開山以来四百九十三年に垂々とす。更に不退山と示号後も三百年を欠く事わづか二歳、灼熱酷寒の三百年基盤は弛み伽藍傾けり。
昭和二十七年先住歓阿直山師屋根を改造せるも既に頽勢蔽い難く、先年檀越篤信の人々の喜捨によりて伽藍建築に着手し基盤拡幅等造営一切を、昭和五十四年を以って竣工、名実共に近隣に比肩し聊かも遜色なき伽藍の完成を見たり、且造営に当りては須弥檀来迎柱等の内陣一切は旧の儘再使用し、まして糸欄間にいたりては再三に亘りこれを使用、その意三世に変らぬ弥陀の慈愛を伝えてまこと遇然にして真妙なり。就中欄間の彫刻に及びては山口求順作と伝える事署名の出現によりて其の確認を得しを望外の喜びとなす。時に享和二(一八〇二年-二〇一年前)年の事なり。
本堂に額き首を廻せば山門を越えて仰ぐ白雉の山のいや高く遠く元慶の古を伝え、西方に転ずれば陣ケ森の山裾長く雲霧に消え、はるか雲外の頂きに須川の山雪をのぞむ、東刈萱の連峯安道の孤を描いて大峯の尾根に馳せ南へ延々千松の溪邑に至り、更に越ゆれば雲煙万里の彼岸に達すべし。この無辺の間に檀家相寄り適所に散在して二百と八十有余、その深く限り無き慈愛の輪廻とことわに変る事なかるべし。時にその盛衰免れずともひたすら宗祖一遍上人の御訓えに帰依し、永劫変らざる檀徒並びに檀越篤信の衆生の護持により玆に累代二十三世を算え現在に至る。
平成二十年十月三十日、遊行第七十四世真円上人を迎え晋山式・庫裡落慶法要会修行にあたり寺暦をたどり謹みて縁起となす。
二、大聖不動明王尊縁起
当山に安置し奉る大聖不動明王は慈覚大師(天台宗延暦寺第三世座主)の御作に成るものにして、古は西磐井郡花泉町油島、白山姫神社(林泉山白王寺)道場に本尊として安置せられたるを、明治三年神佛分離令に依り明治八年同町曹洞宗満昌寺に移奉された。
しかし、明治二十六年たまたま同寺火災の為全焼せる時、当不動明王はその広大なる神力により火炎の中に在りても、なほ巍然として大魔を退散せしめ災厄を免れ得た。
御縁あり明治二十七年秋当山にて御招請奉安せるものなり。
爾来百十有余年郷内諸災難消除、五穀豊穣、家内安全の御利益広大なるを、昭和二十四年施主の労に依り堂宇を改築し、又昭和五十四年信心の篤志者の寄進に依り屋根葺替、壁修理、又平成八年奉安百年を記念し御尊体修復等を成したるに、近年郷内は勿論郷外よりの信心の施主多く其のあとを絶たず、ますます神威の隆昌を招来せり。
三、概 況
宗 派 時 宗(じしゅう)
宗 祖 | 証誠大師 一遍上人 |
---|---|
総本山 | 清浄光寺(遊行寺)神奈川県藤沢市 |
名 称 | 不退山合掌院長徳寺 |
所在地 | 岩手県一関市藤沢町保呂羽字宇和田 |
本 尊 | 阿弥陀如来 |
脇 佛 |
観音菩薩 勢至菩薩 |
教 義 | 大慈悲の阿弥陀佛に帰命する只今のお念仏が一番大事なことです。家業につとめ、はげみ、むつみあって只今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく生かされて明るともさを増し、皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれるとする教えです。 |
宝物 |
五智如来 八臂弁才天 十五童子 大聖歓喜天 河越阿弥陀如来 聖徳太子 不動尊 但シ腹籠立像あり 薬 師 如 来 祗園牛頭天王 |
本堂 |
天和二年五月建立 昭和二十七年屋根葺替(石版)二十一世直山代 昭和五十四年二月改築二十二世良顕代 |
庫裡及山門 |
享保十年三月建立 明和年中再建 平成二十年十月新築二十三世真之代 |
熊野堂 |
建 立 不 詳 明治十三年再建 昭和四十七年屋根葺替(鉄板) |
不 動 堂 |
明治二十八年五月建立 昭和二十四年屋根葺替 昭和五十四年九月屋根葺替 |
表石門 | 昭和十三年千葉弘一氏寄進 |
裏門 |
建 立 不 詳 昭和二十二年再建畠山孟氏寄進 昭和五十一年再建千葉正七郎氏寄進 平成十年再建伊藤初男氏寄進 |
新参道及駐車場 | 平成二十年十月三十日竣工 |
新参道石門 |
平成二十年建立熊谷勤氏寄進 伊藤初男氏寄進 岩渕敏氏寄進 佐藤昭雄氏寄進 |
梵鐘 |
奉納年不詳(大束亜戦時供出のもの) 柳林屋敷大工与左衛門寄進 |
石像 |
延命地蔵尊 平成四年石田昌一氏寄進 裸水子地蔵尊 平成九年伊藤勇治氏寄進 宗祖一遍上人尊像 平成十四年畠山二三夫氏寄進 |
四、歴代住職
天台宗 三文寺(年代不明)
開基 | 玄明律師 |
---|
時宗 長徳寺(一三八八年~)
開基 | 総本山清浄光寺遊行十二世尊観法親王 |
---|---|
開山 | 慈阿弥 佐藤信基 |
第二世 | 極楽院 慈阿弥子 |
第三世 | 東照院 極楽院子 |
第四世 | 善瑞和尚 東照院子中興開山 |
第五世 | 長円坊 |
第六世 | 林相坊 |
第七世 | 但阿卓善 享保四年十二月二日示寂 |
第八世 | 覚阿卓玄 仙台阿弥陀寺へ転住 |
第九世 | 基阿哲道 亘理へ転住 |
第十世 | 維阿哲岸 明和五年四月二十五日示寂 |
第十一世 | 但阿廊門 |
第十二世 | 覚阿義海 角田専福寺へ転住 |
第十三世 | 覚阿廊門 仙台真福寺へ転住 |
第十四世 | 弥阿観広 文政十二年四月十五日示寂 |
第十五世 | 但阿智頓 嘉永六年六月二十日示寂 |
第十六世 | 観阿了広 武州川越東明寺へ転住 |
第十七世 | 迎阿泰順 明治三十年十二月十日示寂 |
第十八世 | 智阿泰充 水沢長光寺へ転住 |
第十九世 | 大阿善教 昭和十一年八月十三日示寂 |
第二十世 | 晋阿良峯 昭和十二年応召 |
第二一世 | 歓阿直山 静岡安西寺へ転住 平成二十二年八月二十七日示寂 |
第二二世 | 雲阿良顕 一関市へ転出 平成二十八年七月二十二日示寂 |
第二三世 | 光阿真之 現在 |